今週のお題「お父さん」
3年前に、あの世へ逝ってしまいましたね。
83歳でした。
私の父は、歌のうまい人でした。
昭和、テレビが白黒の頃、
今もまだ続いているNHKの「のど自慢大会」に出て、
合格の鐘を鳴らし、
そして県大会へと進み、見事県一位になりました。
周りから、チヤホヤされてたみたいですね。
写真ありますね。かっこいいです。
と、言っておきましょう。
5人きょうだいの4番目。下に次男。
上に姉が3人いての長男で、かわいがられて育ったそうですね。
戦争時は、子どもだったのでよく知らなかったと思います。
それもまた、ある意味幸せです。
父は、自営業で2代目でした。
自営の仕事をする傍ら、
18歳でギターに目覚め、
それから、いろいろな楽器を弾いて、バンド仲間いましたよね。
兄が高校受験、大学受験、私の高校受験、
そんなの関係なく家で仲間と楽器弾いて歌ってましたね。
楽しかったでしょう。
家の中にはこんな楽器がありました。
ギター、アコーディオン、オルガン、エレクトーン、三味線、尺八。
みんな、弾けたし吹いてましたね。
歌も習ったんでしょう。
歌謡曲はもちろんですが、民謡まで歌っていました。
私が小学校の時です。
町の盆踊りの時は、自分の父親がやぐらの上で歌って、
娘が輪の中で踊っているという、あまり見かけませんよね。
誇らしかったです。
兄と私が生まれても、ずっと歌はやめずに続け、
昭和のカラオケブームにのっかり、カラオケの先生として、
たくさんのマダム?おば様達に教えていました。
生徒さんは、数知れず。稼いだお金も、額知らず。
遠いところで、30㎞離れたところまで教えに行っていましたね。
我が家でも教えていました。
ちゃんと、カラオケルームみたいな部屋を作ってましたから。
毎晩のように父はいなかったので、
小・中・高・社会人になってもそんなに父と話した覚えがありません。
父は、倒れるまで、仕事と歌と趣味に生きた人でした。
母です、苦労したのは。できた母でした。
毎晩のように出て行っても文句言わず、
送ってくれ!迎えに来てくれ!という父のわがままにこたえ、
深夜であろうが迎えに行っていました。
そんな母を見て育ったせいでしょうか、
兄と私は、親にとっては手のかからない子供だったと思います。
これで、私達子どもが道それてたら、母はダメだったと思います。
母を語ると長くなります。
今回は、父の話ですね。
でも、お父さんに言いたい。
「お父さんが楽しそうに人生生きてるその陰で、
泣いてる人いたんだよ。お母さん!!」
おばあちゃんにいじめられてたし、小姑たちにもいじわるされてたし。
でもね、それよりなにより、子どもとして一番いやだったのは、
仕事しながら、父が母に怒鳴ってること。
あれなんなの!!と言いたい。
あー、話それてます。
倒れてからは、父の「ありがとう」という言葉が増えました。
怒鳴ることなくなりました。
最後5年間は施設に入りました。
そこでも、カラオケで歌声を披露しましたね。
「北国の春」うまかったよ!
だんだん、娘の私のこともわからなくなっていきました。
母のことも、最期のほうはわからなかったかもしれません。
母は、いつも施設に会いに行くと、
父の手を握りながら話しかけていました。
母の父への愛を感じました。
苦労かけられていてもです。
夫婦はこうでなくちゃ、と娘の私は思います。
父が歌っていた演歌には、耐え忍ぶ妻だったり、荒波を乗り越えてとか、
お前に苦労をかけたなとか、心に染みる歌詞多いです。
今、母は、父の歌が入ったカセットテープを毎日聴いてます。
お通夜の時も告別式の時も、父の歌った曲を会場内に流しました。
来てくださった方々が、よかったと言ってました。
それに、棺の中でも、
民謡でステージに上がった時の緑の着物を着せました。
最後までかっこよかったよ。
最後まで本当に幸せだったと思います。
私の結婚式で父が歌ってくれた、「君の名は」ですが、
今のNHK朝ドラ「エール」の主人公のもとになっている「古関裕而」さんの作曲なんですね。
ドラマ見ながら、父のこと思うことあります。
人生振り返ると、半分芸能人でしたね。
兄と私は、歌も楽器も教えてもらえなかったし、
誕生日のお祝いも一度もありません。
家族で旅行も一度もありません。
100点取っても、ほめてもらったことないし。
でも、「あなたの娘でよかった。」と、
亡くなってからじわじわと感じてきています。