はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」
少し思い出してみます。
出産…
テレビでよく見る出産シーンのように、
分娩室の前の廊下で夫や親が
ソワソワするものだと思っていましたが…
第1子出産の時は、里帰り出産でした。
夜中に破水して、そのまま入院。
両親は自営業の仕事が忙しい時期で、
あとで来るねと。
夫は、ちょうど県外に出張でいません。
その日の夕方5時頃から陣痛が始まり、
7時には産まれました。
誰もいません。
私の頑張り具合は、誰にも伝わってません。
事後報告で、
あわてて夫も家族も来たという感じでした。
分娩所要時間5時間、安産でした。
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第2子出産の時は、
実家に帰らず、夫の転勤先で産むことにしました。
長男は3歳になってます。
夜中に陣痛が始まりました。
朝まで待って、入院の準備して診察時間めがけて病院へ。
夫は仕事を休み、長男も保育園を休ませ、
付き添ってくれました。
即入院です。
夫と息子がそばにいてくれて心強かったんですが、
だんだん陣痛が強くなってきたら、
「お母さん、大丈夫?」という息子の声、
「このへん、さすろうか」という夫の言葉、
なにもかもいらない、だからお願い、
「下の食堂で、ご飯でも食べてきて!」という私。
夫と息子が部屋を出て行きました。
それからすぐに分娩室に入り、
昼の12時には産まれました。
夫と息子は、
その時食堂で”そば”を食べてました。
夫が言うには、
食べ終わって来てみたら部屋にはいないし、
看護師さんに
「もう産まれましたよー」
「はあー!!」
だったそうです。
分娩室に入り赤ちゃんと対面だったと。
分娩所要時間3時間、またも、超安産でした。
この時ばかりは、
廊下でそわそわしてる場面を想像してたんですが、
また違いました。
私が早く産むからだと言われました(笑)
死産…
第3子を授かり、
妊娠5ヶ月の時のことです。
胎動をも感じていました。
ある日、出血しておかしいと思い、
診察に行きます。
2人の子どもを問題なく産んでいたので
この危ない感じがわかりませんでした。
流産の可能性があるから、
大きい病院を紹介するので、
そちらに行ってくださいとのこと。
夫を呼んで二人で病院に行き、
即入院です。
病院では、
「点滴しますね、安静にしててください。」
と言われます。
4人部屋でしたが、他に誰もいなくて私一人です。
夫に、
「子ども達、頼むね。」とお願いしました。
その日の夜です。
陣痛…⁉
経験してるので、わかります。
間違いなく陣痛です。
ナースコール押しました。
看護師さんが来るまでの間にも陣痛が強くなってきて、
下におりて来てる感じがわかります。
もうダメなんだと、自分なりに察しました⤵
看護師さんがきて、
私はバスタオルを股間にあてながら、
車いすにのります。
診察室に向かう途中の廊下で、
私は「もうだめです!もうでます!」と。
私の抑えるバスタオルの中にスルッと出てしまいました。
必死に落ちないように押さえてました。
まだ、胎盤でつながっています。
でも泣き声しません。あったかいです。
私の手の中で…小さすぎます。
妊娠17週 死産
体重:165g 身長:20cm でした。
厚生労働省令では「妊娠12週(4カ月)以降の亡くなった赤ちゃんの出産」
を死産と定義している。
原因不明の死産でした。
見せてもらって、抱きかかえました。
ほんとに小さかったです。
小さいなりに、
ちゃんと目も耳も指もみんなできてました。
ここまで育っていたのに、
「ごめんね」という気持ちだけでした。
夜中の出来事だったので、一人部屋で泣いてました。
私はもう一日入院ということで、
火葬には立ち会えませんでした。
長男は、泣いていたそうです。
長男小4、次男小1の3月でした。
思うこと一筆(いっぴつ)
出産が、時間的には安産だったこともあって、
どうも簡単に産んだと思われているんですが、
違いますからと言いたいです^^;
花を植えて育てるのが好きになったのは、
死産した頃からです。
今生きていたら、高校2年生です。
たまに、息子たちにも話します。
大きくなった息子たちを見て、
思います。
この世で命ということが、
一番考えさせられることです。
100歳まで生きる人もいれば、
0歳で人生終わってしまうこともある。